
直方市指定文化財『高取焼』について
1592年~1598年、天下を統一した豊臣秀吉がニ度にわたって朝鮮半島に出兵。
当時日本では利休による侘茶の大成により、茶器への需要が高かった。そこで陶磁器生産の先進国・朝鮮から直接生産の技術を獲得しようと、多くの陶磁技術者を連れ帰り、各地に窯を開かせた。
のちに福岡藩主となる黒田長政も、このとき「八山」なる陶工を連れて帰り、1606年頃、福岡県直方市大字永満寺宅間に窯を築かせた。
この時八山は鷹取山に因んだ「髙取」の姓と和名「八蔵(はちぞう)」の名前を賜り、「髙取八蔵重貞」と名乗る。これが髙取焼の名称の由来であり、以降、黒田藩御用窯として多くの銘品を生み出した。
その後、高取焼の窯は鷹取山の南麓の内ケ磯(直方市頓野内ケ磯釜の尾)に移転。その理由として、宅間では地形の制約で大きな窯が築けないこと、当時黒田藩と不仲だった豊前国小倉領との境に近かったことがあげられる。
内ケ磯窯では全長46.5メートルにおよぶ巨大な登り窯が作られた。半地下式連房階段状登り窯という形式で、この種の窯としては国内最大級とされる。